k3の駄文録

テキトーに書いています。

ウクライナ戦争における欧米の支援、特に軍事支援はずっと小出しにされてきている。

軍事的にはこれ、「戦力の逐次投入」ってやつで一番やっちゃいけない戦術だったのではないか。効果が限定的で犠牲が大きくなる。

欧米及びウクライナが勝利条件として最大でもクリミアまで奪還するところまで、と同意を得たうえで戦闘機も含めてドカンと戦力を提供するのが最善のはず。

 

特に米国のグズグズ具合についていえば、「ロシアを刺激したくない」「いたずらに核戦争のリスクを上げたくない」というのは建前で、ウクライナ戦争をアフガニスタン戦争やベトナム戦争のように泥沼化させてロシアの国力をそぐのが目的じゃないかと勘繰ってしまう。

 

実際には疲弊度が大きいのは欧米側になるとの予測もある。

泥沼化して有利になるのは、食糧・エネルギー・鉱物資源の豊富な国(つまりロシア)の方であって、エネルギーをロシア、食料をウクライナに依存していた欧州の方が不利ってのが今の状況だろう。

 

結局のところ、世界秩序にとってはロシアは少なくとも今回のウクライナ戦争で獲得したウクライナ領をすべて失うという結末が望ましく、その時にウクライナに余力があればクリミアまで奪還して終了するのが理想的なのだ。

侵略戦争を行った国は何も得られない、という教訓を残さないといけない。そうしないと欧州では数十年後には旧ソビエト構成国が侵略される未来が待っているし、それより前にアジアでは中国が台湾・尖閣南沙諸島へ侵攻を始めるだろう。

戦火がウクライナにとどまっているとはいえ、第3次世界大戦はすでに始まっているのだ。

AI絵で俺TUEEE!は割と簡単に殺せると思う

AI絵師が人間絵師の仕事を奪う? という話について。

別にテキストは適当でなくても、出力に使った呪文でもよいのだけど。

これを思いついたことで、AIと人間の根本的な違いはこれだよねと思ったので書きたいと思う。

 

AI絵師というのはおそらくネット上に転がっている大量の絵を収集して学習させてると思うのよね。

それがどういう絵なのかはAltとか絵に付随する記事、コメントから抽出してるのではないかと。

だから上述の方法でAI絵を出力させるサービスは割と簡単に終わらせることができるのではないか。AIはそれが何なのか、人間のように「意味を理解して」出力しているわけではない。人間との大きな違いはここ。

 

今は「呪文」を唱えることで良い絵を出力させているわけで、これは新しい「絵師」というか「召喚術師」として一つのクリエイティブなジャンルを作るのだろうなと思う。

 

ただ、これに興奮するあまり「もう人間絵師はいらない」「負けを認めろプゲラ」みたいな話になると、まあ戦争になるだろうねと。

 

で、AI絵師を殺すのって、冒頭に書いた通り割と簡単なんじゃないのと。いわゆる教師データポイズニング攻撃とでも言いましょうか。

AIと言っても機械学習は「意味」は「理解」していないのだから、そこにゴミを大量に混ぜ込めばいいわけです。

そのごみをどこから調達する?となると、それはAIが出力したデータで十分賄えるよねと。

 

良い「絵」を描くには、人間もAIも大量の絵を見て学習する。これはどちらも同じ。

違いは、人間であれば良し悪しの「価値判断」ができること。いわば自力で教師データの取捨選択を行い、自分の血肉として新しい絵をかくことができる。

AIにはそれがない。AIは感動しないから。見るに堪えない絵と良い絵の判断ができない。冒頭のAIに描かせた絵をコンクールに出展するのだって、絵は召喚術師が選んでいる。

 

AIが創造分野、アートの分野で真に人間と同等、あるいはそれを超えるには、AIが出力した絵をAIが良し悪しを判断して、選別することができないといけない。

 

結局のところ、現状のAI絵師というのは、既存の絵を混合コピーしているだけであって、それ以上の物は、このやり方をしている限り永遠に出力できないだろうと。

意味のない斬新な物を出力して、人間が勝手に忖度して、あるいは勝手にこじつけて意味づけすることはできるだろう。それなんてロールシャッハテスト? って話。

 

人間の場合は作り手が意図をもって斬新な、んでもって下手すると誰にも理解されないようなものを生み出してくる。

AI絵の出す斬新な絵、は、どこまでも一方通行。人間の出す斬新な絵は、そこにある種の対話がある。誰にも理解され無い絵であっても、それを見た人との間に何らかのメッセージのやり取りが生じる。それがAI絵にはない。

 

芸術を構成する一つの要素として、作り手とみる人の対話ってのを定義することができるのではないか。

 

さて、件の美術品評会の話。

召喚術師の人は批判に対して反発しているようだけど、結局これは写実画のコンテストに写真を出展したようなもの。

写実主義の絵と、写真をお前は同列に扱うんかと。それは別ジャンルだろうと。

写真と既存絵画が棲み分け、それぞれで表現技術を高めていくのに対して、別ジャンルのものが殴り込みをかけるのは手抜きというか、チートで「俺TUEEE!」したいだけなんちゃうかと。

 

もしもAI絵の召喚術師がそういうことを考えずに殴り込みをかけてくるってんなら、冒頭のやり方でAI絵師が殺されても文句を言うなよ、ノイズしか出力されなくなったAI絵で「クリエイター」頑張ってね♪ くらいのことは言ってもいいんじゃないかと思う。チート死すべし。慈悲はない。というか、AI絵を人間絵と同じに扱えというのなら、学習データに膨大なゴミデータが入って初めて平等になるんじゃないのと。過去の人間の出力した絵にフリーライドしてんじゃねぇよと。

 

僕はAI絵ってのは写真のような新種の技術だと思うんで、そのジャンルを確立すべきだと思うし、そこで人間の出力した絵を機械学習に食わせることで「人間とは何か」みたいな深遠なテーマを探求するルートが開拓されると思う。

それはすごくエキサイティングなことで、芸術の発展を促すものだと思う。だからAI出力の絵を既存のコンテストに出して蹴散らすようなチート行為は慎むべきだと思う。

 

 

ちなみに、AI絵を殺す方法に対抗する簡単な方法は、出力される絵に電子透かしを入れること。これで機械は透かしの入っていない絵から学習すればよいし、AI絵を人間のコンテストに出展するような事案をある程度弾くことができる。

そして機械に自分の絵を食われたくない人は自分の絵に電子透かしを入れればよい。ウェブサイトのmetaタグのように機械学習拒否の透かしを入れるような仕組みがあるとどちらにとってもハッピーなことになるのではないかと思う。

機械生成の絵がどうたらこうたら

人間のイラストレーターが不要になるみたいな暴論がまたぞろ出ているのだけど。

 

機械学習って結局過去に人間のクリエイターが作ったものをベースにしているので、言うなれば「手の込んだコピー」。

 

まあそれ言うと人間のクリエイターも先人の絵から影響を受け学んでうんたらかんたらで作っているので「手の込んだコピー」って論点からは同じって言われる。

 

もっとも、現時点では絵に魂が…っていうか作者のメッセージとかが盛り込まれてないじゃん? ってのは成立する。まあ、現時点では。

 

原理的には検索エンジンみたいなもので、特定キーワードに合致する学習データをもとに合成しているだけなので。

 

将来は生成プログラムにそういう意味的、メッセージ的なキーワードを盛り込んで学習させればその問題もまた解消されるのだろう。

 

また、絵に関しては、「人間が勝手に意味付けしてくれる」という抜け道がある。「これはAIに生成させました」というテキストなしには、おそらく多くの人が勝手に意味付けをして納得し、称賛してしまうだろう。

 

「そもそも、意味とは何か」みたいな哲学的な考察まで要求される。

 

それはそれとして、AIによって生成されるのは「従来の絵の平均値で生成された絵」であることは間違いない。大体どれも同じような味付けの絵になる。

 

人間の場合は、「意図的に平均から外してメッセージを入れる」みたいな芸当ができるが、これは機械学習には困難な分野だろう。

 

というのも、適切な学習データを集めることが、おそらく原理的にできないから。

そういう尖った作風のものを集めると、ただのカオスが生成されるはず。

 

尖らせたうえでカオスでもない”尖った絵”をAIに生成させようとするとどうなるか。おそらく、誰か特定の人のクリエイターの劣化コピーしか作れない。

 

結局これが、AI(機械学習)の創作物の限界、枠となる。そこからはみ出すことは、AIにはできない。これは断言できる。

なぜなら、AIは他の絵を「学習」して生成するが、人間が作る絵は、他の絵を学習しただけの結果ではなく、その人の人生、経験、感情などもひっくるめて生成されるものだから。枠を超える道を、生身の人間は持っている。

 

AIがそのレベルに達するには、AIに感情のモデルを与え、経験を創作物に変換するための仕組みが必要になる。

 

人間が人間のことをまだ理解できていないというのに、それをAIのモデルに反映させることはできない。AIを「第2の知的生命」とするには人間は自分のことを知らなすぎる。

 

問題となるのは、商業デザイナーのように、「平均的な絵」が求められる分野。

 

従来のデザイナー・イラストレーターにとって、これは明らかに外部からもたらされた「脅威」となる。多くのデザイナーが経験するように、レベルの低いクライアントにとっては「AIでもいい」となってしまう。

 

そこに発生するのは、AI画家によさげなイラストを描かせるオペレーター職。イラストレーターの市場に、全くの異分野から新規参入が発生し、競争の激化、低価格化競争が発生する。

 

ここで、既存のイラストレーターもAIオペレーターとしての技能を身に付け、「レベルの低い」クライアントにはAI生成の絵を渡せばよい、という判断もあり得るだろう。

 

ただ、そう簡単に行かないのは、既存のイラストレーターにとっては、AIオペレーターの作業はただの苦痛でしかないことだ。

能力がある人ほど、AI絵の粗が目につき、修正したくなるだろう。また、イメージと違うものばかりが出力されてストレスがたまるに違いない。

 

おそらく、審美眼の無い人間、あるいは無責任/不誠実な人間ほど、考えなしに生成されたものを提出できてしまう。

 

低価格市場はAIオペレーターに席巻され、生き残れるのは、現時点で図抜けた能力や人気を持つイラストレーターに限られる。その人たちは高価格市場で安泰となるだろう。

 

ただ、そのあとが続かない。経験の浅いイラストレーターはAIオペレーターに駆逐され、育たない。高価格市場に上がれる人間は、一部の天才、またはほかの分野で人気を得た者だけに限られることになる。

 

高価格市場はデザインからアートに変質するだろうし、低価格市場ではどれもこれも「平均的」なもので埋め尽くされる。

消費者の感性もそれに慣らされ、いずれ「平均」から外れた絵は気持ち悪いと思われ、バッシングされるようになるかもしれない。

逆に、「平均的」なものに食傷気味になり、バックラッシュが起きるかもしれない。

その時が、人間のイラストレーターが浮上するチャンスになるだろう。

 

いずれにせよ、イラスト・デザインの市場は荒れるだろうし、その間の食い扶持をどうするか、厳しい時代がやってくるように思う。

他責思考とか自責思考とか経営とか

togetter.com

いや、自責思考って人が死ぬから。そんなもんを標榜している時点で人の道踏み外してるよ。

 

そもそも会社経営とか労働って、自責とか他責なんて区分で責任を押し付け合うようなものじゃないわけですよ。この2つで話をしている時点で大間違い。

 

会社組織に求められる責任と言うのは他責と自責ではないんですよ。誰だこんなバカなことを提唱し始めたのは。

会社組織における「責任」は、「アカウンタビリティ」と「レスポンシビリティ」の2つ。適切な日本語に訳すと、「結果責任」と「行動責任」。アカウンタビリティは「説明責任」ではないからね。説明責任ってのは盛大な誤訳。結果責任を取る際にやるべきことの一つが説明ってだけの話。

 

で、「行動責任」ってのは部下に求められる責任。与えられたミッションを完遂するために行動する責任。ベストを尽くせってやつ。結果が伴わなかったとしても、それは部下の責任ではない。「ミッションに失敗したから、担当者はクビね。」ってのは間違い。それは結果責任を部下に転嫁しているだけ。

部下をクビにしていいのは、報連相を怠ったとき。なぜならそれは行動責任を果たしていないから。

 

一方の「結果責任」は、上司に求められる責任。ミッションに失敗したときにクビにすべきなのは結果責任を負う上司の方。

上司は結果を出すために部下のリソースを適切に、戦略的に使わないといけない。組織のミッションなんてのは部下一人で実現できるわけないんすよ。できるというなら、それ会社組織である必要ないじゃん? 一人で全部できないから組織でやってるんでしょ。

だから、ミッションの成否に責任を負うのは、上司。そのための権限と組織の資源が与えられているのだから、成功させることができるのは上司でしょと。だからその結果に対する責任は上司にある。

 

会社組織の運用ってのは他責や自責じゃなくて、責任の分担なんですよ。そこには他責も自責もないでしょ?

 

自責が正義? まさか。自責/他責思考論がやっているのは、責任の分担ではなく分断ですよ。

 

大体、自責ってのは自分の役割の範囲内での自責でしょ? するとどうなるかというと、誰の役割でもない仕事は誰もしない。零れ落ちる。当然、組織のミッションは失敗する。

 

ん? そうじゃない? 誰の役割でもないものも抱えるのが自責?

それって抱えた人に仕事を押し付けてるだけでしょ。すごく無責任だよね。その時点で、「自責」は崩壊しているよね。

 

何言ってるか分からない? んじゃこう言おう。

自責だ他責だという区分において、「誰の役割でもない仕事」を遂行する責任は誰にあるんですかと。それに気づいた人? バカですか? あなた今責任を気づいた人に押し付けたよね。それはあんたの言うところの他責だろ。

「気づきませんでした」って言えば、取らなくていいんだよね。その責任。「気づいた人がやらなかったのが悪いんです」っていうんだよね? ほら、他責。いや、無責任の温床。

 

責任を行動と結果で分担していれば、誰も気づかなかった結果に対して、誰が責任を取るべきか分かるよね?

そういう分担が自責/他責論にはない。だから分断。結果に対する責任を誰かに押し付けないと成立しない。重大な欠陥、欠落がある。

 

結局、他責自責だという区分自体が、机上の空論なのよ。

 

責任を取りたくない誰かが、自分の責任を他人に押し付けたくて発明した屁理屈、それが「自責思考」。動機が不純なんだよ。

だから責任転嫁できそうな匂いを感じ取ったバカ経営者が飛びつく。ホント誰だよこんなペテンの概念提唱したの。

くるま

アメリカから「非関税障壁」っていちゃもんつけられてる軽自動車の制度、自分だったら、

  • 「軽自動車」の分類は存続。管轄は市町村
  • 車体の全長全幅の枠はそのまま。
  • 乗員の制限を撤廃。
  • 排気量の枠を撤廃。
  • 自動車税は軽はエンジン合計出力1kw当たり200円。登録車は1kwあたり400円。
  • 自動車重量税は軽、登録車共通で、100㎏あたり2000円。
  • ガソリン税をなくして同等のコストの炭素税を導入。

てな感じの制度に変えるなぁ、と。

北海道ブラックアウト、泊原発が動いていれば避けられたのか検証してみた

9月6日の北海道の地震で、「泊原発が動いていれば全道ブラックアウトはなかったはずだ」という主張がある。

ただ、どの主張も概念的で、定量的に検証した話をあまり見聞きしない。まあこれは自分が本件について大してアンテナ張ってないからというのもあるけど。

ただ、今のままだと元技術屋として気持ち悪いので自分で検証してみることにした。

状況の整理

地震の発災は9月6日午前3時ごろ。直前の午前2時台の発電実績は286万kWであった。

この時、苫東厚真石炭火力発電所は全機稼働中で165万kWを賄っていた。

原発が止まっている今、ベースロード電力は石炭火力が担っている。高効率で発電するため、おそらくフル稼働状態だったのではないかと思う。

発災時に発電を停止したのは2号機(60万kW)と3号機(70万kW)。1号機(35万kW)はその後17分間頑張ったが需給バランス崩れに耐えられずこれも停止。約57%の供給が失われ、全ての発電所が止まった。

北海道電力では夜間、需要の45%を賄う発電所が突然停止すると確実に全道停電になる

上記の状況から、北海道電力では夜間、130万kWの電力供給が失われると確実に全道停電になることが分かる。これは需要の45%にあたる。

実際の閾値はどうなのだろうか?北海道電力の設備一覧から変動電力を担う水力とガスタービンの総出力を合計すると、179.8万kWであることが分かる。

実際の運用は分らないが、需要の増減に即応できるように全ての水力発電ガスタービン発電が常時50%の出力で運転していると仮定すると、想定外の変動は89.9万kW、夜間電力の31%までの変動をカバーできる計算になる。確かにこれでは130万kWの変動はカバーできない。

あともう一つ、本州との電力の融通を行う連携線の容量が60万kWある。これを入れると想定外の変動は149.9万kW、夜間電力の52.4%までの変動に耐えられるはず、という計算になる。実際には45%で全道ブラックアウトしているのでこの計算は現実から乖離しているとみなしていいだろう。

泊原発が動いていたらどうだったか

さて、「もしも泊原発が動いていたら」という仮定を考えてみる。

泊原発は、1号機と2号機が57.9万kW、3号機が91.2万kWの出力がある。

泊原発と苫東厚真火力がベースロードを担うと仮定、夜間電力を290万kWと仮定して、その50~60%(145~174万kW)をこの2か所で賄う場合発電所の稼働パターンは以下が想定できる。

1. 泊原発1号機または2号機だけが稼働していた場合

1-a) 原発57.9万kW(需要の20%をカバー)

苫東厚真1,2号機(95万kW)を運転

⇒2号機(60万kW)だけが止まるシナリオなら全道停電は避けられた可能性がある。

⇒1号機も停止したら全電力の32.7%を喪失。理想的な条件(ガスタービン、水力が50%で待機していて即応できる+本州からの即時の受電5.1万kW)なら全道停電は避けられるかもしれない。

 

1-b) 苫東厚真1,4号機(105万kW)を運転

⇒4号機(70万kW)のみが止まるシナリオなら全道停電は避けられた可能性がある。

⇒1号機も停止したら全電力の36.2%を喪失。理想的な条件(ガスタービン、水力が50%で待機していて即応できる+本州からの即時の受電15.1万kW)なら避けられるかもしれないが、甘すぎる想定の感が否めない。

 

 

2. 泊原発3号機だけが稼働していた場合

 

原発91.2万kW(需要の31%をカバー)

2-a) 苫東厚真2号機のみ稼働

⇒全道停電は避けられた可能性がある。

 

2-b) 苫東厚真4号機のみ稼働

⇒全道停電は避けられた可能性がある。

 

3. 泊原発1号、2号が稼働していた場合

原発115.8万kW。(需要の39.9%をカバー)

3-a) 苫東厚真1号機(35万kW)のみ稼働

⇒全道停電回避

 

3-b) 苫東厚真2号機(60万kW)のみ稼働(合計185.8万kWh、64.1%)

⇒全道停電は避けられた可能性がある。

 

4. 泊原発1号と3号、あるいは2号と3号が稼働している場合

原発149.1万kW(需要の51.4%をカバー)

⇒苫東厚真は動かす必要がないので全道停電はしない。

 

結論:泊原発が再稼働していれば今回の地震に限り、全道停電は避けられた可能性がある。

今回の地震に限って言えば、苫東厚真2号機と4号機が地震で同時に故障したことが原因。この点のみに着目すると、

  1. 泊原発のうち2基が稼働している場合
  2. 泊原発の3号機のみが稼働している場合

において、全道停電を回避できた可能性が高い。これは北海道電力の電力網が、70万kW(需要の24%)を突然失っても耐えられる、という条件が付く。

机上の空論では、北海道の電力網は、149万kWの急激な負荷変動に耐えられる。実際には135万kWで落ちた。おそらくもっと小さい変動でも落ちるだろう。それが100万kWなのか、70万kWなのかは私にはわからない。北海道電力にはそのあたりを検証していただきたい。

 

ただし、泊原発を2基稼働させると、原発に震度5以上の揺れが来ると全道停電が発生する。

一方、泊原発を再稼働させた場合、もしも泊原発1号と3号、あるいは2号と3号を同時に稼働させていた場合、泊原発で震度5の揺れが来ると100%全道停電する。

原発は震度5以上の揺れを検知すると緊急停止する。そしてこの2基の組み合わせの発電量は149万kW、今回のブラックアウトを引き起こした130万kWを超えている。

つまり、夜間に震度5の揺れが泊原発を襲うと、確実に全道ブラックアウト、泊原発は外部電源喪失の緊急事態に、自動的に陥る。

 

北海道の電力網がブラックアウトする閾値は何万kWなのだろうか? 泊原発は1号機と2号機で115.8万kWを出力する。もしも全道ブラックアウトの閾値がこれを下回るようなら、泊原発は絶対に2機以上同時に動かしてはいけない。

 

電源喪失のリスクはどうだろうか?

  1. 地震でその非常用電源も損傷して使えなくなる
  2. 点検漏れや記録の改ざんなどよくある人的要因で実は使えない状態
  3. 豪雨や豪雪などの気象災害のため、電源車からの電力の供給が困難、あるいは行えない

など、よく起きる手違い頻発する気象災害が2つほど重なればそれで全電源喪失のお膳立てが出来上がる。そして震度5の揺れは毎年日本のどこかで何度も発生する。このような状況で全電源喪失の回避は、ほとんど神頼みの領域ではないだろうか。

変電所が震災による火災の被害を受けることも考えられる。外部電源の回復に1か月かかるようなシナリオを追加してもよいだろう。

泊原発では全電源喪失でも耐えられる準備を整えているが、最後の砦まで一気に迫られるような状況は多重防護の原則に反する。地震発生と外部電源喪失が常にセットで、全電源喪失の回避を運に任せるような運用は認めてはならない。

終結論:泊原発を再稼働させても全道ブラックアウトの可能性は残る。そして、原発が深刻な事態に陥るリスクを抱えることになる。

2基動かすのはハイリスクなので、1基だけ動かすなら大丈夫だろうか? その場合、100万kW前後を石炭火力で賄う必要がある。今回は130万kWの喪失でブラックアウトしたが、100万kWなら大丈夫だろうか? 泊原発3号機の90万kWの突然の停止くらいなら大丈夫だろうか?

そこが分からない限り、「泊原発が動いていれば全道ブラックアウトは避けられた」なんて、軽々しく言うことはできない。そんな主張ははっきり言って考えなしの無責任である。

北海道電力がこの点をしっかりシミュレーション・検証してくれることを期待したい。

 

 

 


このブログ、こんなまじめな話を書くようなスタイルじゃないんだよなー・・・。

か知らん

はてなブックマーク - 語尾に「~かしら」と付ける男性について

あたしゃ最初にのび太をイメージしたよ。

すげー。いろんな調査があるんだね。

本稿では明治初年から現在までに発表された小説を用い、終助詞「かしらん>かしら」という語形変化の流れの中での男女の使用差を調査した。昭和前期頃に語形が「かしら」に定着するとともに、女性的な表現として定着していることが分かった。また、明治後期の男女の使用差を考察したところ、明治後期の作品では、女性の発話に丁寧体と共存して終助詞「かしら」を使用する用例が多く見られた。これは、直接的な問いかけや依頼を避け、柔らかな丁寧さを示しており、明治以後形成された発話の仕方における男女差の反映と見られる。小説の世界では、明治後期から「かしら」を使用する女性のステレオタイプが形成され、大正期・昭和期をへて、現在に至り「かしら」が女性的表現として定着してきたと考えられる。

CiNii 論文 -  終助詞「かしら」における男女差の形成--近代小説における用例調査を中心に

個人的には男性も普通に女性言葉使えるようになった方がありがたい。感情表現の幅が広がる。